村上春樹の小説は、なぜ人気なのか。
いくつかの観点から分析してみる。
アメリカ小説からの影響とデタッチメント、都市と感受性、その他など
いくつかの観点から分析してみる。
アメリカ小説からの影響
①ハードボイルド小説
ハードボイルド(hardboiled)とは、黄身までしっかりと固くなった「堅ゆで卵」をあらわす言葉である。
転じて、感情や状況に流されず、軟弱、妥協を嫌う生き様や、それを描いた小説のジャンルのことを指す。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89
村上春樹の作品もハードボイルド小説の影響を受けているとされる。
もっとも、ハードボイルド小説は、推理小説で見られるが
村上春樹の作品は推理小説ではないが、推理小説作家である
チャンドラーの作品を村上春樹を好んで読んでいたため
そこからの影響を受けたと考えられている。
もっとも、村上春樹の作品は軟弱や妥協を嫌うというところまではいっていない。
感情的な描写や人物から人間味がみられる場面が少ないという表現がより近いと思う。
重里徹也、三輪太郎著の『村上春樹で世界を読む』では
村上春樹の初期作品で、外面描写を重視し、内面を描かない、センテンスが短いという
ハードボイルド小説によくみられる特徴が挙げられている。
②シーク&ファインド小説
直訳すると、隠れて見つける。
小説でよくある話の型で、何かが消える、失われてしまい
それを求めて登場人物が動いていくというストーリー展開のものを言う。
狭義では、シークの意味もふまえ、何かが失われてしまいそれを探し出すということになるが
広義では、何かを探す物語を指すこともある。
何かを探すという目的がはっきりしているため、物語に締まりが出るし、話としても成立しやすい。
村上春樹の作品ではピンボールを探す『1973年のピンボール』、
特殊な羊を探す『羊をめぐる冒険』、天吾と青豆がお互いを探す『1Q84』など
シーク&ファインドと読める作品が多い。
探す対象は、必ずしもシークされたものではないが
『ノルウェイの森』のキズキや『ねじまき鳥クロニクル』のクミコなど
何のきっかけもなく人が消えてしまう(あるいは死、失われてしまう)
ということも村上春樹の作品ではよく起こる。
そして、他のシーク&ファインドの作品と同様に
村上春樹の作品の主人公は何かを探すという過程で
自己にとって重要な経験をしたり、損なわれた他者と対峙する、
自分を再形成するという経験をしていく。
もっとも、このシーク&ファインドの小説は
あまりにも典型的すぎるということで、
蓮實 重彦という当時(今もか?)の代表的な批評家から
『小説から遠く離れて』という著作の中で、『羊をめぐる冒険』について
「いろんな作家が似たような作品を書きすぎ」という主旨の批判をされている。
※村上春樹の作品にこのような評価を下す人がある一定はいるということだ。
③結末の拒絶
村上春樹は自身のエッセイである『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』で
自身が愛する作家レイモンド・チャンドラーのあるエピソードを紹介している。
チャンドラー『大いなる眠り』が映画化した時、
映画の監督からチャンドラーは電話で犯人を聞かれ、
そんなもの知ったことはないと電話を切ったという話だ。
※『大いなる眠り』は私立探偵フィリップ・マーロウが殺人の犯人を探すが
はっきりしないまま終わる話だ。
チャンドラーとしては、自身も知らずに書いているようで
村上春樹も作品を書くときは基本的に同様のスタンスをとっている。
本人もここまで言っているわけではないが、作品でよく謎とされる
『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』で誰がシロをレイプし後に殺したのか、
『ノルウェイの森』では結局ワタナベが誰と一緒になるのかはっきりしないまま終わるなど
はっきりしない終わり方が多いのだが、村上春樹自身もわからないまま書いているのではないかと推測される。
『1Q84』でのリトルピープルや『騎士団長殺し』の騎士団長など
他にも超常的な現象が起きるが、それが何なのかしっかりした説明もされないし
結末を迎えるころにもそれは変わらない。
最後まで読んだが結論がないし、謎が解決していないという批判は
村上春樹の作品の批評ではよく目にするものだ。
いずれにしても、きれいに作品が終わらないことは確かである。
これは村上春樹の価値観からきていて、
人間が落ちて、失われていく話にしか興味が持てない、
それでも、悲しい話を書いているつもりはないというのはその喪失感の物語のなかに
なんとか新しい救いを見出そうと僕なりに全力を尽くしているからだ。と
『「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえず
ぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』と述べている。
デタッチメントとコミットメント
3作品目の『羊をめぐる冒険』で妻から離婚を切り出された主人公は
「それは君自身の問題だ」と切り返す。
離婚とは夫婦2人の問題であるはずで、それを君自身の問題と
言い切るのはいかがなものだろうか。
この受け身の姿勢、村上春樹の評論家は「デタッチメント」と呼んでいる。
初期作品の主人公は、あらゆる物事から距離を置き、感情を乱されず、
他者や社会と一定の距離を保とうとする。
まさにハードボイルドである。
実はこの姿勢こそが村上春樹作品の特徴の一つで
嫌いな人は嫌いで、好きな人は好きというものである。
この主人公の姿勢を「かっこいい、憧れる」という人もいるし
「気取りやがって」とけなす人もいる。
黒子一夫は『近現代作家論集 村上春樹論』の中で
「かつて青春とは武者小路実篤「友情」のように他者への積極介入、
他人の内部へ踏み込むような人間関係だった」と語っている。
1960年代までは全共闘の時代でそのような価値観だったが、
1970年代の経済成長でモノが町中にあふれるようになり
他者との向き合い方も村上春樹の作品が支持されるように
変わっていったという。
また、黒古一夫は「内面に決して不意入れないことが優しさといえるのか
他者に何も期待しない凍結した心を抱いているがゆえに、
限りなく自分にも他人にも優しくなれるというのはどこか間違っていないか」と語っている
一方で本能的にわれわれは他者への恐怖心があると村上春樹に賛同する人もいる。
しかし、主人公は受動的なだけでなく
仕事に関しては高度な技術や高い職業的モラルを持っている。
『羊をめぐる冒険』ではフリーランスの広告代理店を共同経営し
『1Q84』での予備校講師である天吾、スポーツインストラクターである青豆、
『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』で駅を作っているつくる、
『騎士団長殺し』で似顔絵を描いている主人公など
みな仕事の評判はよく、組織に依存することはないが、
与えられた仕事は完璧にこなす。
受動的でありながら、「やるときはやる」という姿勢が
読者の憧れを読んでいるのである。
村上春樹は『「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹に
とりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』にて
主人公は世の中を見下してはいないと言っている。
人生の生々しさを理解しながら、
その生々しさとのあいだの正しい距離を把握しようと努めている。
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』では
事件は向こうからやってきて、それを潜り抜けて帰ってくる。
それだけの話で主人公は何も選び取っていないと批判されていることを語っている。
しかし、1995年ごろからそのスタイルは変わっていく。
新聞で、地下鉄サリン事件の被害者が後遺症が原因で
職場から追い出された記事を見て、「この社会は何かおかしい」と思い
地下鉄サリン事件の被害者にインタビューをする『アンダーグラウンド』を出版する。
パレスチナ問題、原発、香港の民主化デモなど
社会的な問題に積極的に発言するようになっていった。
社会と全く関わってこなかったこれまでの村上春樹としては考えられないことだ。
都市と若者について
特に初期の村上春樹作品について語る際に、
川本三郎の都市論に触れないわけにはいかない。
川本三郎は、1944年生まれの評論家であり、
多数の著作を残している。
評論家としての仕事は多くこなしている人だ。
『都市の感受性』にて村上春樹の作品を都市生活と関係づけて語っているが
これが数ある村上春樹論の中でも、非常に有名なものになっている。
戦後、社会が変わっていくことで、人間も変わっていった、
それを村上春樹の作品から読み解いたということだ。
川本三郎の『都市の感受性』と合わせて
作田啓一の『個人主義の運命』を参考に
中世~近代と戦後からの経済成長が世の中に起こした変化と
それによって人の心に生じた変化について書いていく。
それは、「自分」というものへの意識だった。
村上春樹の作品はほとんどで「僕」という一人称小説だが
昔からこういう小説が一般的だったというわけではない。
三人称の小説が一般的だった。
上記は昔の絵画だが、注目したいのは視点。
特定の個人の視点ではなく第三者の視点で上から見下ろしている。小説でいうと三人称だ。
昔は、小説というのは、聖書や平家物語など歴史上の人物を描く、
特に宗教上の人物を描くというのが多かった。
作田啓一の『個人主義の運命』で書かれているのだが、
中世では所属している集団がその人間にとって全てで
自分とはどういう人間なのか、自分とは何かを考えていなかった。
人が考えているのは所属している集団のことだけだった。
一般的に集団への帰属意識は、地位が高いものほど高いが
中世においては、集団の最下層のものもそれなりに集団への帰属意識を持っていた。
それはひとえに、そこからはみ出れば生きていくことができなかったからだが、
ただ、集団への帰属意識は物質的な意味からだけではなかった。
中世における主人と召使の関係は、
どこか召使が、主人の富や力を自分のもののように誇りに思っていた
精神構造があったとされている。
法律は家がその構成員に対する権利を認めており、
結婚や子供の養育は家族の決定として行われていた。
財産も個人ではなく家が管理しており、外には持ち出せない。
税も個人ではなく家に、名誉も個人ではなく家に課せられた。
人々の意識は、自分のことより集団のことを考える、そういう世の中だった。
少し話題がそれるが中世のヨーロッパでは、それを支えているのがカトリックだった。
7秘跡(洗礼や結婚など)など、どちらかというと
目に見える形で信仰を表現しようというカトリックは
秘跡により集団の団結性を高めていった。
そこから宗教革命が起き、
目に見える教会への貢献ではなく、目に見えない個人の信仰を
重視するプロテスタントが勢力を増し、教会が育む集団的なまとまりが失われていった。
そこから産業革命が起き資本主義社会になりさらなる変化が起きた。
集団が絶対だった世の中から
稼げる個人はいくらでも稼いで豊かになって良いという世の中になった。
また、労働は家や集団のためというより、個人の生計の維持という考え方が広まっていった。
資本主義により、さらに集団の力は弱まっていった。
だが、人々の意識は変わり、小説も変わっていき
一人称かつ自分とは何かを追求する小説が登場してくる。
具体的には、ロマン主義と呼ばれ
個性や自我の自由な表現を尊重した作品が出てくる。
これが西洋での自我の確立である。
昔は自分とは何かとか、自己表現とかそのような考えはなかったのだが、
社会の変化によって人間が考えることは変わっていったのである。
ひるがえって、日本の戦後の話、
川本三郎の『都市の感受性』で書かれている内容である。
戦後、周りを見回せば焼け野原だった生活から
1960年代からの経済成長により、日本の各地に発展した都市ができる。
都市と対象にし、地方の故郷を便宜的に「故郷」と呼ぶ。
故郷では、お互いがお互いを知っている。
それどころか、その家の親も祖父も歴史や先祖代々の土地までお互い知っている。
それ以外の情報も噂は一瞬にして広まる。
生まれた場所でずっと暮らし、生まれた身分のまま死んでいくものだった。
それは、生まれた場所から移動するメリットが少なかったので
生まれた場所で死ぬまで暮らすのが普通だった。
しかし、経済成長で各地に都市ができると、
生まれた場所から出ていくメリットが出てくる。
金になる仕事はあるし、娯楽もあるし、色々な人に出会える。
人が都市に出ていくと、そこで故郷とは全く違う
他者との関わり合いを経験することになる。
先祖代々からお互いのことを知り、
ちょっとした噂話もすぐに広まるようになる故郷とは違い
都市ではお互いを全く知らない。関心もない。
そのような変化を経験し、自分のことを知らない他人から
おまえの価値は何か、おまえはどういう固有性を持っているか
直接的にあるいは間接的に問われることになる。
人は自分固有の価値を探し始める。
村上春樹が青春時代を送った1960~70年代は
まさにそのような変化が起こった年代である。
人は都市に出て、自分とは何かを考えながら
お互いに踏み込みすぎない関係性を維持する。
都市化については、今も大きく状況は変わっていないため
当時から今に至るまで村上春樹は若い都市圏の読者から
支持を受けているということだ。
これは間接的に社会やシステムの理不尽さを指摘しているともいえる。
しかし、作中に変えようとする、解決策を示すわけではないという批判もある。
心理学、異界
心理学(特にユング)や無意識と村上春樹はよく関連づけ語られる。
一つの要素はナラティブ。
心理学分野ではナラティブセラピーという手法が、1970年ごろから流行ってきた。
患者に話をさせることで、抱えているトラウマ体験の解釈を変えさせることで、
悩みを話しているとすっきりしたり対処法が見えてくるという経験はないだろうか
人に悩みを話しているうちに気持ちがすっきりした、悩みの対処の仕方を思いついた
人の悩みを聞いていると、ずいぶんと行き過ぎた物事のとらえ方をしていないかと感じる
上記のような体験は日常生活でもあるのではないか。
村上春樹の主人公はこのナラティブセラピーのようなことをよくしている。
『風の歌を聴け』の主人公、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公、
そこに何かアドバイスをするわけでもなく、何かを損なった人々の経験をただただ聞いている。
もう一つは深層意識と異界、
こっち側とあっち側の世界、深層意識や無意識と異界だ。
作中、それまで親密な関係を保っていたものが、とくに行先を告げず、別れの言葉もないままに消えてしまう。
『ノルウェイの森』のキズキや『羊をめぐる冒険』のキキだ。
社会の枠組みからはみだし、日常から逸脱し、向こうの世界にいってしまったものを
こちら側の世界から探し求める。
『ねじまき鳥クロニクル』で僕が井戸に降りたように
意識と無意識の境界をあいまいにし、無意識の底に降りていき
トラウマの核になるようなものに出会うのだ。
よく言われるように、人の心は意識と無意識に別れ
無意識では理論で説明がつかないことが起こる。
村上春樹の作品で理論で説明できないことが多い。
ちなみに、作中によく登場するセックスシーンは
こっち側からあっち側、無意識や異界側に入っていく一つのツールとして
描かれていることが多い。
その他
特徴的な比喩
以下のように、比喩の使い方も独特である。
メルセデスはききわけの良い巨大な魚のように、
音もなく夜の闇の中に消えていった。
『ダンス・ダンス・ダンス』より
全ては死に絶えていた。線を切られてしまった。
電話機のような完璧な沈黙だった。
『ダンス・ダンス・ダンス』より
謝肉祭の季節を迎えたピサの斜塔みたいに前向きで、しっかりとした勃起だった。
『海辺のカフカ』
クールさ
『村上春樹いじり』でドリーが語っているが
『風の歌を聴け』の表紙、波止場のはしっこに鉄の突起物に腰をおろし、
たばこを片手に黄昏ている、海を眺めているおれ、という価値観
また、ノルウェイの森のワタナベは持ってきた水筒にブランデーを入れて飲み始める。
こういうクールさを肯定できるかできないかが村上春樹を好きになれるかどうかだ。
そして、初期作品は斎藤 美奈子が『文壇アイドル論』で指摘したように
自意識と多少の甘えと若々しさから「喫茶店のマスター文体」とも揶揄される
セックス、女性描写
村上春樹を嫌いな人に理由を尋ねた時に
1位か2位にくるのが「セックス描写が生々しい」というものだ。
ここでは割愛するが、確かに『ノルウェイの森』をはじめとして
性描写が割りに生々しいし、それを嫌う人がいるのもよく理解できる。
また、村上春樹の作品では男から働きかけるのではなく
女から誘ってくることが多く、男は受け身でなされるままである。
あまりにご都合主義的ではないかと言われる。
「あなたと寝てみたいわ」と彼女は言った。そして、僕たちは寝た。
『羊をめぐる冒険』より
『「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹に
とりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか』と
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』にて以下のように答えている。
セックスというのは、人の心についた鍵を開けるための一つの装置です。
それはある場合には刺激的になりすぎるのかもしれません。
しかし、僕の書く物語にとってはどうしても必要なこと
セックスは魂の交流であり、良いセックスであれば魂はいやされる。
女性は作中霊媒的なものとなり、やがて姿を見せる世界の先触れである。
だからこそ、女性からいつも主人公に近づいてくる。