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Wikipediaより詳しいかもしれない村上春樹の紹介

しばらく関心があった村上春樹について調べており

そちらを何本かの記事にまとめて公開する予定です。

初回は村上春樹の紹介になります。

 生い立ち~大学入学まで

1949年1月12日に村上千秋と美幸の長男として京都で生まれる。

よくペンネームと間違えられるが、村上春樹は本名である。

デビュー当時の無名なころは、村上といえば龍、春樹といえば角川であり

ペンネームでもやりすぎとよく言われたので、「本名です」と言いづらかった。


デビュー当時はペンネームをつけるのが面倒だったからつけなかったが、

名前が売れるようになると厄介なことが増え、今思えば後悔している。※1

1951年に芦屋市に転居する。

村上春樹の父親である村上千秋さんは1918年に京都府長岡市の

浄土宗石山光明寺の住職の家に生まれる。

村上春樹の祖父にあたる千秋さんの父親は村上弁識(べんしき)という名前の

地元では有名な僧侶で、お寺は4~500軒の檀家(お寺の行事に参加したりお布施を渡す

関係にある家)を持っていた。4~500という檀家はかなり多い方で、数十が一般的だそう。

千秋さんは旧制東山中学校(1936年卒業)→西山専門学校(1941年卒業)

→京都大学文学部国文学科を昭和22年9月に卒業後、その後大学院へ進学

西山専門学校は仏教の専門学校みたいなところだった。

今は京都西山短期大学と名前を変えて続いている。

在学中、第二次世界大戦と重なり、3回の徴兵に参加した。
中国大陸の戦闘に参加するが、生き残りその後国語教師になる。

千秋さんは、戦争体験から毎日朝食をとる前に戦争で亡くなった人を想い

仏壇に手を合わせていたそうで、国語の教師にはなったが、

パートタイムで僧侶の仕事もしていた。

熱心な阪神タイガースファンで、阪神が負けた日はひどく機嫌が悪かった。※2

村上春樹が生まれた直後に父の千秋氏は兵庫県西宮市にある私立甲陽学院中学校の

国語教師として採用され、西宮市に引っ越しをした。

父としては、村上春樹にいわゆる「まともな仕事」についてほしいと思っていたようで

就職活動をせず水商売をすると聞いて、ずいぶん落胆したようだ。

親子関係は良いとはいえず、父千秋さんが90歳で亡くなる直前20年以上は口を一切交わさなかった。※2

なお、祖父の弁識(べんしき)さんは酒好きで、ある晩、酔って線路の上に

横向きに寝てしまったのだが、その上を路面電車が通り亡くなってしまった。

村上春樹作品は、突然人が理由もなく消えたり死んでしまったりするが、

当時は突然人が死んだり、いなくなったりすることは今よりは珍しくなかったようで、

村上春樹も祖父の死を含めてそのような経験があり、作品に影響しているとみる人もいる。

母の美幸さんは1924年生まれ、船場の商家の娘ばかりの姉妹の一番上で生まれた。

上で書いた村上春樹の祖父弁識(べんしき)さんが亡くなったとき、

美幸さんが父にすがるように泣いていたそうですが、悲しみからではなく、

「寺の跡継ぎ問題」が嫌だったからと書かれている。※3

母の美幸さんも国語教師だった。

小学校~高校時代

1955年に西宮市立浜脇小学校入学する。
1957年に西宮市香櫨園(こうろえん)小学校に転校する。
1961年に兵庫県芦屋市立精道中学校入学する。
1964年に兵庫県神戸高等学校入学する。

中高時代は目につくような不良もいなかったし、同級生のほとんどは

絵にかいたような中流階級の家庭の子供たちだった。

学校は嫌いで、女の子に会うのと麻雀のメンバーを探すために行っていた。※4

高校生の時は勉強を全くせず麻雀に夢中になり、徹夜麻雀ばかりしていた。
気の合わない人と卓をかこみたくなくなり、30歳前からやらなくなった。※5

高校の時はそうではないが、中学の時には教師から頻繁に殴られた。

それも、原因は宿題を忘れたとか、何か教師の気に障ることを言ったとか、
けっこう些細なことが原因だった。今でも思い出すとやはり不快だし、頭にくる。

それ以来、教師や学校に対して親しみよりはむしろ、恐怖や罪悪感を強く抱くようになった。

人生の過程で何人か優れた教師に出会ったことはあったが、

その人たちに個人的に接触したことはほとんどなく、

どうしてもそういう気持ちになれなかった。※1

映画のシナリオを描くことに興味があったが、大学で映画演劇科が

当時は早稲田と明治と日大しかなかった。※1

なんとか国立に入ってくれと言われ一年浪人し、苦手な数学と生物を

がんばって勉強しようとしたが、結局芦屋図書館でうとうと居眠りしながら

一年間を棒にふった。※6

成績は悪かったが、当時は早稲田に入るのはそこまで入るのが難しくなかった。

他に入った連中を見ても頭脳明晰な奴は見当たらない、就活の時にマスコミ業界に行ったが、

「悪いけど、早稲田じゃしょうがないんだよねぇ」と冷たくされたこともある。

10代のころは何より本が好きだった。箱入りの新刊が学校にくると、

不要になった空き箱のにおいをただくんくんと嗅いでいた。※7

両親が国語教師で枕草子や平家物語を暗唱させられることにうんざりし、

外国の作家を読み漁る。

神戸の三宮センター街に古本屋が何軒かあり、

英語のペーパーバックを箱に放り込んで10円、20円で売っていた。

本屋ではツケで本を自由に買うことが許されていた。

河出書房『世界文学全集』と中央公論社『世界の文学』も読んでいた。※8

レイモンド・チャンドラー、スコット・フィッツジェラルド、

トルーマン・カポーティ、ロス・マクドナルド、エド・マクべイン、

ロバート・シルヴァーバーグ、ブローティガン、ヴォネガットらのアメリカの作家にはまり

特に自身の初期作品にその影響がみられる。

また、トルストイやドフトエススキーなどのロシアの文学も好んで読んでいた。

近現代を含め日本の作家はほとんど読んでこなかったが

作家になってから、第三の新人と言われる吉行淳之介、庄野潤三、小島信夫、安岡章太郎、

遠藤周作らの作品を読んだ。※6

本人曰く「ヘンリー・ミラーやアルベール・カミュを読みながら煙草をふかし、

一人でジャズを聴いていたひねくれた高校生だった。」※5

高校時代の仲の良いガールフレンドがおり、

その女の子が初期三部作の自殺したガールフレンドやノルウェイの森の直子のモデルと

なったといわれている。二人そろって暗い感じのカップルだったという。

その他のエピソード

・高校生の時に出会った素晴らしいものとして、ビーチボーイズ、セックス、

河出書房世界文学全集を挙げている。※9

・高校時代には漫画雑誌「ガロ」をよく読んでいた。

つげ義春、白戸三平、手塚治虫「COM」、山岸涼子「日出処の天子」、

村上もとか「赤いペガサス」が好きだった。F1ドライバーのニキ・ラウダも好きだった。※4

・暇があれば自転車に乗るか、阪神電車に乗って甲子園球場まで試合を観に行った。

小学生のころは「阪神タイガース友の会」にも入っており、

入っていないとクラスでいじめられた。※2

・18のころ受験勉強が嫌になって、神戸から船でふらっと九州にいった。

映画を見ていたが、女の人から「ねえ500円でいいからやらない?」と言われた。※10

・兵庫県立神戸高校の二年生の時は3人の女の子がバレンタインチョコをくれた※10

・昔は夜机に向かっていると、窓ガラスにこつんと小石があたって、

ふと外をみると友達が手を振っていた。「海岸に言って焚火でもしないか」と言われ焚火に

行ったこともある。当時の芦屋にはきれいな砂浜があった。※5

・神戸のトアロードにある「デリカテッセン」のカウンターで食べる

スモークサーモンやローストビーフにはまっていた。※4

・高校材代、仲がよかった女の子について、ある名前を友人から聞いたので、何気なくその名前を黒板に書いた。

彼女はそれを見て泣き出してしまい、しばらくクラスの女子から無視された。

別の女の子からその理由を説明され、その名前は被差別部落の俗称で彼女は

その出身であったと聞き、その女の子に謝った。

この世界ではだれでも無自覚の加害者になりえると強いショックを受ける。

いじめをテーマにした『沈黙』や『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』は

この経験から生まれたと分析する人もいる。※11

・神戸にはたくさんの中国人がいて、同級生にも中国人がいた。

初期三部作にも主要人物でジェイという中国人が出てくる。※12

大学時代

1968年に一朗した後に、早稲田大学第一文学部演劇科入学する。

生まれて初めて関西を離れ、東京で一人暮らしを始める。

目白の和敬塾という学生寮に入るが経営者が右翼でそりあがわず

半年後素行不良で追い出される。

右翼学生がおそってくるということで、枕元に包丁を入れて寝ていたこともある。

早稲田の学生課で見つけた一番安い寮(三畳で4500円敷金礼金なし)だった

練馬の下塾に転居、都立家政が近く周りは大根畑だった。

その翌年には三鷹のアパートに転居しており、趣味である引っ越しは

ここから始まったとみられる。

なお、目白の和敬塾はノルウェイの森の主人公が住む寮のモデルになったと言われており、

今も存在している。

和敬塾へのアクセスマップです。各駅より来訪される際のランドマークなどもご説明します。

北寮、南寮、東寮のうち主人公のワタナベは東寮に住むが、実際には東寮だけがない。

※村上春樹は西寮に住んでいたそうだ。

小説では「一二年生は二人部屋」、「三四年生は一人部屋」とされているが

十年ほど前から一人部屋となっている。

一二年生の部屋は狭く、村上春樹がいたころは最も上下関係が厳しかったころだ。

なかでも西寮が最たるもので、今でもそこに四年間住むものはわずかのようだ。

右翼的であるのは確からしい。

ノルウェイの森では永沢さんが上級生ともめてナメクジを食べたそうだが、

村上も上級生からミミズを食べることを共用された。※13

※なお、ナメクジは寄生虫がいて、食べて亡くなった人もいるそうで、

絶対に食べないでください。

ほとんど大学には行かず、夜の新宿の小さなレコード屋でアルバイトをしながら、

映画を見ては、歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸る生活を送り始める。

都の西北も歌ったことがない。

大学では2人か3人しか親しい友人ができなかった。※そのうちの一人が奥さん

健さんが好きで、学生時代歌舞伎町の投影上映館でほとんど毎週のように東映映画を見ていた。※4

毎晩飲み歩き、酔いつぶれるとタンカで運ばれた。「日帝粉砕」など看板がそこらじゅうにあった。※10
新宿駅は学生当時何もなかったが、地下道だけは整備されていて、夜遅くなった時、

地下道で友達とよく寝ていた。※14

高校時代にガールフレンドができてから風呂と床屋にはさぼらずいくようになったが、

大学時代がヒッピー、学生運動とぶつかったから大学で汚い生活に逆戻りし、

床屋にいかない、風呂に入らない、服は変えない、ヒゲはそらない、

一カ月頭を洗わないのは普通だった。当時、汚いことが一種のステータスだった。

結婚してからまた清潔な生活に戻った。※10

また、その当時は全共闘の最盛時代だった。

「石も投げたし、体もぶつけた あの時代に鉄のように鍛えられた」と語っている。

内ゲバという内部もめが発生し1969年から2001年の間発生件数1960件以上、

負傷者4600人以上、死者113人と言われている。その中心をなし、革マル派の牙城と

いわれたのが当時の村上春樹がいた早稲田大学の文学部だった。※15

※内部でのゲバルト(ドイツ語で暴力)、革命という共通目標を持ちながら
内部での考え方の違いで発生した。

1960年代後半~1970年代前半はことに、人が消える時代だった。

自ら選び取って消える、自殺するなど、若者が消えてしまうことは珍しくなかった。※16

全共闘には参加したが、いくつかの不愉快な事件があったと語られている。

スト解除後、アジっていた連中が真っ先に授業に参加し

「おれが落第すると故郷のおふくろが悲しむから」と言っていた。

それを聞いた時、僕はもうなにも信頼すまいと思った。※17

美しい言葉で力強く語られるものごとは、まず信頼するなという信念を持つようになった。

※18

大学のころ、寝袋をかついで各地を旅していたことがあった。

ある年の秋、青森を旅していて、山の中を旅していて、日がくれて雪がふりそうだった。

そこで運よくマイクロバスにひろってもらった。十人ほどのおじさんの団体がのっていた。

小さな会社の社員旅行か町内旅行だったかと思う。おじさんたちはやさしくて、酒でも飲みなといって進めてくれた。酒をのみ眠り込んで、少したって気がつくと、おじさんたちは僕の悪口を言っていた。

「親の金で遊びやがって、酒まで飲みやがって厚かましい野郎だぜ、学生は気楽でいいや」
僕は眠ったふりをしていた。悪口を言われた時は眠ったふりをしよう。教訓を得た。※19

 結婚、お店開店、小説家デビューの20代

1971 大学で出会った高橋陽子さんと学生結婚する。

奥さんの実家に挨拶に行った時、学生で仕事にもついていなかったが

お父さんは「陽子を好きなんだな?」とだけ聞き「そうか」と了承してくれた。※20

結婚の決め手は「この人と一緒にいたら、退屈しないだろうな」と思ったから。

どんなに素敵な人でも退屈したらきついと思っていた。※4

三鷹のアパートで2年暮らした後、結婚に伴い小石川植物園の近くの奥さんの実家の布団屋に居候させてもらった。

布団屋のため、本当は猫をつれてきてはだめだが、こっそり連れて来た。※20

お店を開く

所帯を持ったので自立しないといけないと思い、就職活動をするが、

「こんなバカバカしいことやってられない」とどうしても会社で働く気になれない。

当時は全共闘の会社に入るのは堕落だという風潮もまだ残っていた。※6

「自分の手で材料を選び、物をつくって、客に提供できる仕事がしたい」

「一日中好きな音楽を聴いていればいい」という気持ちから自分でお店を開くことを決めた。

当時は店を開くのに大きなお金など必要なく

夫婦で二年間必死に働き、二百五十万円の貯金をする。

さらに銀行から250万円、友達からもいくらか借金して、ジャズ喫茶を開店する。

店の名前は「ピーター・キャット」、以前飼っていた猫の名前からつけられた。

場所は国分寺駅の近くだった。昼はコーヒーを出し、夜はバー、

週末には生演奏が聴ける店として、店の収支は悪くなかった。

誰も使っていないアップライト・ピアノがうちにあったので店に持ち込み

週末になるとローカル・ミュージシャンのライブをやるようになった。

当時中央線沿線にはたくさんのミュージシャンが住んでいて、

人材に不足することはなかった。

向井滋春、高瀬アキ、杉本喜代士、大友義雄、植松孝夫、古澤良治郎、

渡辺文男等の名前を『職業としての小説家』で挙げている。

佐山雅弘は当時ライブに出てもらっていた。※19

とはいえ、その生活はハードで、朝早くから真夜中まで店にかかりっきりの日々だった。

採算が取れるようになり、一息つけるまでに20代をほとんど費やした。

男女というのは対等だという考えがあり、同じくらい労働し、同じくらい家事をしていた。※6

20代はじめ結婚したばかりのころ本当にお金がなく、ストーブも、目覚まし時計もテレビもラジオもなかった。

洗濯機も買えず毎日手洗いしていたが、冬は朝になったら洗い場に氷がはっていた。※18

当時、どうしてもお金がなく、道端で必要な額と同額のお金を拾ったことがある。※21

猫を二匹飼っていたんので、眠る時は人間と猫とみんなでしっかりと抱き合って寝た。

なぜか近所の猫達のコミュニティセンターのようになっていて

いつも不特定のビジター猫たちがいて、人間二人と猫四、五匹がいた。

相変わらず、大学の授業に出ておらず結局七年大学にいたが、

仕事をはじめそろそろ卒業したほうが良いということで授業に出るようになった。

最後は大学に籍を置きながら、仕事をしており、結婚もしていた。

当時は、単位の数で学費を払う仕組みだったので、そこまでお金がかからなかった。※9

卒論は『アメリカ映画における旅の系譜』、指導教授は印南高一、

卒論は無事提出できたが、ラシーヌの講義で出席日数が足りず、

指導教授である安堂信也事情を話してお願いすると、わざわざ店まで来てくれて、

「君も大変だなと」と言ってくれ、単位をくれた。※21

こうして無事早稲田大学を卒業するが、普通の人は学校を卒業し、仕事につき、

仕事が落ち着けば結婚するのに対し、村上春樹の場合は、結婚し、仕事を始め、

最後に卒業するという普通と逆の順番になってしまっている。

1977年、ビルの持ち主から増築を理由に立ち退くように言われ、

「ピーター・キャット」を国分寺から千駄ヶ谷に移す。

千駄ヶ谷に移ってきた時、小切手用の当座口座を開きたかったが、

地元での商売の実績がなく困っていた。

原宿の駅前を歩いていたら、某銀行の原宿支店ができたばかりで、

行員が歩道で記念品をくばっていた。

そのうちの一人のおじさんの愛想がよかったので、

試しに相談してみたら、若いし、スタジャンにジーパンというかっこうでも

親切にしてくれて、あっというまに口座をつくってくれた。

その人はなんと支店長で、それ以来、この銀行が好きになりメインバンクにしてきた。※1

1978年小説家デビュー

29歳の1978年4月に突然啓示のようなものがあり、「小説を書こう」と思い立つ。

昼下がりに神宮球場でのヤクルト対広島戦で、外野席に寝転んでビールを飲んでいた。

広島の投手は高橋(里)、ヤクルトは安田で、一回裏に高橋(里)が第一球を投げると

広島の先頭打者デイブ・ヒルトンがきれいにレフトにきれいにはじき返し、二塁打にした。

ばらばらという拍手が響き渡る。※21

その時に、唐突に「そうだ、小説を書こう」と思った。

その考えはふっと上から降りてきて、ほとんど啓示めいた確信に近いものだった。※6

小説は十代の時に読んでこそいたが、書いたことはなく習作のようなものはない。

デビュー作『風の歌を聴け』を書き始めるが、何を書けばよいかわからない。

これはもう何も書くことがないということを書くしかないという開き直りのようなもので書かれた。

これまでの作家が使ってこなかったようなそのための新しい言葉と文体をこしらえて書いたとしている。※21

店を真夜中にしめ、家に帰り、台所のテーブルで30分から1時間かけて4か月間かけて書き続けた。

村上春樹本人は新人賞に応募したことすら忘れていたが、

『風の歌を聴け』は第22回群像新人文学賞を受賞し、1979年『群像』6月号に掲載された。

また、芥川賞の候補作品にもなったが、こちらは受賞しなかった。

受賞後に音羽の出版社にいき、出版部長に挨拶をしにいった。

「君の小説にはかなり問題あるが、まあがんばりなさい」と言われた。

間違えて口に入れたものをぺっとその辺に吐き出すような口調だった。※14

高校時代の友達が店にきて、あんなもの、おれにだって書けると

少しむっとしたけど、その通りかもしれないと思った。※21

作家になろうとは全く思っていなかったため、

良くも悪くも従来の日本の作家と作風が異なっていた。

食べ物、飲み物、映画、会話が日本離れしてアメリカっぽいのだ。以下は『風の歌を聴け』の「10」から抜粋

「ねぇ、悪いんだけど、小銭を貸していただけない?」

僕は肯いてポケットの小銭をあつめ、カウンターの上に並べた。10円玉が全部で13枚あった。

「ありがとう。助かるわ。これ以上店で両替すると嫌な顔されるのよ。」

「構いませんよ。おかげでずいぶん体が軽くなった。」

日本の純文学はどろどろしたものを書かなくてはいけないという苦手意識があったが、

どろどろしたものを書かなくても、人の魂の深く暗いところは書けるはずだと思っていた。※4

デビュー当時は一種の風俗作家とみなされており、

アメリカのポップカルチャーを身にまとい、

60~70年代にかけて台頭したと指摘なライフスタイルを身に着けた若者たちの感性を

身にまとった代弁者とみなされていた。※22

ちなみに、『風の歌を聴け』はトルーマン・カポーティの『シャット・ア・ファイナル・
ドア(最後の扉を閉めろ)』という短編の最後の文章「何も思うまい。ただ風にだけ心
を向けよう」から取られている。

村上春樹は、大学受験用の副読本で『ヘッドレス・ホーク(無頭の鷹)』を読んでカポーティが好きになったそうだ。

兼業作家のまま、1980年3月号の『群像』に『1973年のピンボール』を発表している。

再度芥川賞(1980年上半期)の候補作となるが、こちらも受賞はしなかった。

 専業作家となり国民的作家へ

『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』ではコラージュ的な頭から書かないやり方で、

『羊をめぐる冒険』以後は頭から書くようになったが、

小説を書くのが本当に面白くなったのはそのあたりからである。※9

最初の二作の『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』は書くという行為を楽しむために

書いた作品で、作品そのものには納得していない。

日本国外では長らく出版されてこなかった。

キッチンで書かれたたため、キッチン・テーブル小説と呼んでいる。※21

最初の二作品はそういう状況で書かれたものだったので、本当に納得できるもの、

奥行のある作品を書きたいという思いがあり、1981年に店をたたみ、

専業作家となることを決めた。※23

お店は成功していたため、周りからは「人に任せればよい、手放さなくてもよいのでは?」と

言われたが、手放すことにした。

専業作家になり、まず直面した深刻な問題は体調の維持だった。

放っておくとぜい肉がついてくる体質だ。※23

当時は1日に60本タバコを吸ってもいた。

健康維持のため走る習慣をつけ、33歳から40年弱ほぼ毎日のように走っている。

うまい具合に家の近くに日大のグラウンドがあり、

朝の早いうちならそこの400メートルトラックを自由に(無断に)使わせてもらっていた。※23

朝5時に起きて執筆、その後1時間くらいランニングかプールでひと泳ぎする。

走る場合は10キロ、泳ぐ場合は1500メートル週のうち走るのと泳ぐのが半分ずつくらい。

それ以外にはスカッシュと自転車をやる。

テニスとゴルフとゲレンデ・スキーはやらない。午後にも仕事を少しするが、日がくれたら絶対に働かない。

夕方にビール(サッポロかモルツ)を一本のみ、そのあと少しワインをのみ寝る※9

年一回トライアスロンのレースにも出ている。※5

たぶん、走ることで、体系的にも精神的にも、小説家的にも変わったのだろう。

ただ、走っていない僕が存在しないので、どう変わったか比較できない。※5

午後は翻訳したり、散歩をしたり、短い昼寝をする。

昼寝をする時はいつも小さい音で室内楽かバロック音楽をかける。

頭はすっきりして、気持ちは前向きになっているので、

もし、昼寝がなければ作品はより気難しく、薄暗いものになっていたかもしれない。※5

日が暮れたらのんびりして完全なオフタイムになり、ワインやウイスキーを飲みながら、

本を読んだり、音楽を聴いたり、ビデオを見たりする。

夜9~10時には寝てしまう。※24

これまでの、不健康でだらしない作家が日本の作家とは対照的で

仕事に関しては勤勉でまず締め切りに遅れることはない。※7

早朝4時に起き、400字詰め原稿用紙10枚に5~6時間書きっぱなしにするストイックな生活を続けている。

待ち合わせにもまず遅刻しない、15分から20分前にはついているそうだ。※25

自らを長編小説家とみなし、短編で新しい文体や手法を試みる、

中編で発展させ、万全な形で長編に使う。

長編は3年、短編は3日長くても1週間で書き上げる。※24

長編小説は14時間ぶっ続け、ものもあまり食べないし、あまり眠らないで書き続ける

トランス状態とかイタコ状態に近い。肉体労働といっていい作業で、それもあり体を丈夫に保っている。※18

肩こりがすごいが、二日酔い、頭痛、便秘、不眠は経験ない。

10年風邪をひいたことはない。※9

小説の推敲は画面での直し、プリントアウトで直し、

画面への直しの打ち込み、画面での直しの順で行い、プリントアウトは3回くらいやる。※9

作品を書き上げるたびに、奥さんに読んでもらう。※26

出版社の校正でも原稿に修正をかける。

特に、新潮社の校正は優秀で原稿が真っ黒になってかえってくると語っている。※4

『ノルウェイの森』までは400字詰め原稿、モンブランの万年筆で手書き

『ダンス・ダンス・ダンス』からはワープロを使い始めている。(富士通製)

『ねじまき鳥クロニクル』からコンピュータを使っている。※18

ボストン滞在時、マッキントッシュというりんごをスーパーで買って食べていた。

それもあり、Windowsが嫌いなわけではないがPCはずっとMacを使っている。※14

手書きからワープロになって文体は変わったかと質問されるが、正直よくわからない。

たしかに文体は変わったが、ワープロのせいかは判断できないそうだ。※6

装丁をレコードのジャケットのように考え、非常にこだわり、

紙や活字の選定、値段、広告や帯の文案まですべてチェックする

佐々木マキ、安西水丸、和田誠とは30年以上の付き合いで彼らには全部お任せする。

一方で、文庫本のフォーマットは会社によってほぼ規定されているため

文庫のデザインにはほとんど関わらない。

海外の装丁には深く関与できないので、出版されたものを見て愕然とすることがある。※24

1982年、『羊をめぐる冒険』を出版する前に『ヤクルト・スワローズ詩集』という

エッセイを世に出した。

ヤクルトスワローズについての想いをつめこんだ詩集だったが、
「こんなもの売れるわけない」と言われ、なかば自費出版で500部刷った。

売れたのは300部ほどで、残り200部は知人らに配り、今手元には2部残っている。

今ではびっくりするくらいの値段がついているということだが、

具体的にはいくらなのか情報は入手できない。

ちなみに、『ヤクルトスワローズ詩集』は2019年文學界8月号に収録され、世に出ている。

1981年専業になり秋に取材で北海道へ1週間いき、

1982年4月までに『羊をめぐる冒険』を書きあげた。

この作品で自分なりの小説スタイルを作り上げることができたとした。

また、時間を気にせず好きなだけ机に迂回毎日集中して物語を書くことが

どれくらい素晴らしいか(また大変か)身体全体で会得できた。※23

『羊をめぐる冒険』では第4回野間文芸新人賞を受賞する。

※財団法人野間文化財団(講談社初代社長が創設)が主催する純文学の

新人に与えられる文学賞で、第1回は1941年で受賞作発表および選評は

『群像』1月号に掲載される。

戦後両賞とも一時中断し、1953年に野間文芸賞のみ再開、

その後1979年の講談社創立70周年を期に野間文芸奨励賞を改称、

野間文芸新人賞として新設された。以降年1回発表されている。

新人作家による小説を対象とし、受賞者には正賞として賞牌、副賞として

100万円(第12回から、それ以前は50万円)が授与される。

初期は村上龍、尾辻克彦など芥川賞受賞経験者に授賞することがあったが、

しだいに芥川賞未受賞者のみを候補とする暗黙のルールが成立していった。

特に90年代以降は受賞者の約4割が後に芥川賞も受賞するようになっている。

1985年に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を出版する。

引っ越しと引っ越しの間にせっせと書き上げた作品だ。

最も、引っ越しが趣味のようなもので、たいていの長編は引っ越しと引っ越しの合間に

書いている。※19

本が出てしばらく中央公論社の担当編集者から谷崎賞の候補になっていることを知らされた。

ただ、選考委員の一部に嫌われているのでどう転んでも受賞はなく忘れてもらっていいといわれた。

受賞当日は、とくに何も考えておらず、ビールをのみそのへんでぶらぶらしていた。

谷崎潤一郎は海外でもよく知られ、尊敬される作家だったので

谷崎賞をとっているのであればそれなりの作家とみられ、後々海外での作品展開でメリットがあった。※19

※谷崎潤一郎賞(たにざきじゅんいちろうしょう)は、

中央公論社が1965年に創業80周年を機に、作家谷崎潤一郎にちなんで

設けた文学賞である。

中央公論新人賞(1956年開始)を発展解消させる形で開始された

(なお、中央公論新人賞は1975年に復活し20年間続いた)。

時代を代表する優れた小説・戯曲を対象とし、発表は年1回、

受賞作発表と選評の掲載は『中央公論』誌上で行われる。

受賞は選考委員の合議によって決定される。

受賞者には正賞として時計、副賞として100万円が授与される

(なお、当初の正賞は賞牌で、副賞は第15回まで50万円だった)。

文壇の変わり者

専業の作家となり、『羊をめぐる冒険』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で

作品のスタイルが確立され、生活スタイルも固められ、作家としての活動が徐々に充実していった。

ただ、村上春樹はこれまで、同時代の日本純文学作家とはかなり違っていた。

一言でいえば業界の「マイペースの変わり者」だった。

海外の作品こそ、十代の時に熟読していたが、日本の作家の作品はほとんど読んでおらず

文章の勉強もしていない、もともとがあまり外交的な性格ではない。

日本の文学を読み込んできて、文章の勉強をしてきて、

同世代の作家や批評家と関わっている他の作家とは全く違っている。

1982年『羊をめぐる冒険』、1985年『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の二作品の成功で

普通の作家なら生活のため、短編、エッセイ、書評、文学賞の選考委員をやったり、メディアに出たりする人が多い。

短編を雑誌の求めに応じて書きながら腕を磨き、売れっ子になると

ようやく新聞や雑誌に連載して長編を書くというのが普通だった。

しかし、村上春樹は自分が納得しないものも世の中に出てしまうことがい嫌で、

誰かに頼まれて小説は書かないポリシーを貫いた。※21

新人作家が守るべき暗黙のルールのようなものに真っ向から反旗を翻した。※27

注文をしぼり、文壇の付き合いを減らし、マラソンやスイミングで長編に専念した。※17

文庫本の解説も、エール交換のようなもので、

だれかに書いてもらうとお返しに書いてあげないといけない暗黙の了解がある。

そういうべたべたした人間関係に巻き込まれたくないから、頼まないし、頼まれても断っている。※9

※実際に、単行本や全集にも一切収録されていない『街とその不確かな壁』という作品があり

納得ができないまま世に出してしまったといわれている。

1980年『文學界』9月号でのみ読むことができる。※20

書きおろしで長編を書くというのは、日本の小説では特権的だが、若手のころから構わず自分の作品作りに邁進していた。

また、今はそうでもなくなってきているが、

当時は作家と批評家と編集者がサークルみたいなのを作って、

どこかに属していないと疎外感があったが、そこから外れていた。※26

もともとが外交的な性格ではなく、どちらかといえば無口。誤解されることもあるが、仕方ないと割り切っていた。

マスコミに登場せず、十年で受けたインタビューは10本に満たない。

特にフィクションについて自分が何か話せば、それが定説になるからと基本的に受けていない※12

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と『ノルウェイの森』を経て

80年代に国民的作家に上り詰めていったが、心理主義的敵傾向とナイーブな男性心理で、

当時の批評家には「通俗小説」と低い評価を受けていた。

世の中では人気ではあったが、文壇での評価は必ずしもそれと一致していなかった。※22

『ノルウェイの森』の成功と海外への進出

1986年、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を書き終わったころ、

千駄ヶ谷から大磯に引っ越す。大磯の魅力として以下を挙げている。

・昔育った阪神間に似ていて懐かしい
・人口が少なく町の規模として手ごろ、緑が美しい
・夏になっても、鎌倉や逗子や葉山のように混まない
・東京からの車のアクセスがたいへん便利
・魚がとてもおいしい
・伊豆や箱根が近くてすぐに遊びにいける
・ジョギングコースに恵まれ、夏は海で泳げる

マイナスのポイントは
・店が少なく買い物が不便
・狭い町なので何かすると目立つ
・通勤にはいささか遠い
・昼と夕方に鳴る放送チャイム音楽がうるさい
・プロパンガス、浄化剤という田舎使用、携帯もかかりづらい。※18

30代の半ばであなたの書く小説は悪い人が出てこないですねと言われ

それ以来意識してネガティブな人物を書くようにしている。※20

(ちょうど、『羊をめぐる冒険』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を出版したタイミングだ)

この頃、『ノルウェイの森』の執筆を始める。

1986年奥さんとともにギリシャ旅行に旅立ち、

ギリシャ各地のカフェのテーブル、フェリーの座席、空港の待合室、公園の日陰、安ホテルの机にて

ローマの文房具屋のノートブック、BICのボールペンで書かれた。※21

自身が手掛けた赤と緑のおしゃれな装丁で、若い女性層の支持を得て大ヒットとなった。

発行部数は2020年現在の発行部数はわからないが、2009年時点で1000万部突破ということがわかっている。

日本の純文学というと、芥川賞作品の発行部数が以下にまとめられているが

一般的には純文学では芥川賞でも数万部、百万部越えれば大ヒットである。

参考までに又吉直樹の『火花』が253万部ということで、いかに『ノルウェイの森』が

ヒットしたかがわかるだろう。

直木賞・芥川賞第1回(昭和10年/1935年上半期)~第168回(令和4年/2022年下半期)全受賞作の、単行本売れ行き部数リストです。

しかし、これが村上春樹に必ずしもいい影響を及ぼしたわけではないようで

小説が10万部売れている時は僕は多くの人に愛され、好まれ、支持されているように感じたが、
『ノルウェイの森』で百何十万部売ったことで僕はひどく孤独になったと語っている。※20

また、「お金がずいぶん入ったでしょう」「お金のためにくだらないものを書きやがって」とも言われた。友達も少なくなった。※4

このころ、いろいろとトラブルがあり、一時的にストレスで髪が薄くなった。※1

これを機により多くの時間を海外で過ごすことになり、ストレスがなくなると髪の毛も次第に元に戻っていった。

海外にいった理由の一つは、ものを書く仕事は日本でなくてもできるから

ということだったが、執筆だけでなく自身の作品を海外で販売する仕事も行った。※26

日本国内で面白くないことがあり、「日本でこのままぐずぐずしていてもしょうがない」と思い

アメリカの市場開拓に力を入れるようになった。※21

ちょうど、アメリカの人たちも村上春樹に興味を持ってくれた。

一つは、レイモンド・カーヴァーの翻訳をしていたこと、

当時ノルウェイの森が200万部を突破がしており、アメリカでも話題になっていた。

また、村上春樹作品はアメリカでもちょっとした評判だになっていた。※21

1989年に『羊をめぐる冒険』がハードカバーでアメリカ講談社から出版された。

アルフレッド・バーンバウムの翻訳で、予想以上に評判が良く、ニューヨークタイムズも大きく取り上げた。

アメリカでは、日本はお金は持っているけど、得体のしれない国とみなされていた。※21

講談社インターナショナルという会社がアメリカで新参だったが、

アメリカで成功するにはアメリカのエージェントと契約し、

アメリカの大手出版社から本を出さないことには難しいと次第にわかっていった。※21

最初に英訳を出してから欧米で売れるようになるまで時間がかかった。

10年間くらいは苦労し、2000年くらいからものごとがうまくいきだした。

現地のエージェントや編集者たちと関係を築くのも大事なことと知った。※4

日本では、メディアに出たりサイン会をやったりはしないが

外国で日本の文化発信力の弱さを感じ、サイン会やインタビューは一種の責務のように感じ

サイン会と賞をとった時のスピーチとかも好きではないけど、がんばってやっている。※26

プリンストン大学生協のそばでサイン会をやったら1時間で15人しかこなかったが、

それが今では1000人以上きてくれるようになった。※26

現在は50を超える言語に訳されている。※21

 その他

作品について

・小説を書いている時間より書いていない時間の方が長い。

書いている時間は邪魔しないように奥さんも気を遣う。

書いていない時は家族サービスのようなことをする。※18

・恥ずかしいので、自分が書いたものをほとんど読み返さない。書いているときは何度も読み返すが、本になればもういいやと思う。※18

・基本的にいつでもない時代、どこでもない場所で物語を書いている。

舞台が設定している作品もあるが、どこだっていつだってよいと思っている。※18

・自分がこれまで書いた本に一冊一冊に愛着はあり、全力を尽くしたという自負はあるが、いま一つ満足がいかない。

ただ、時間がたつにつれ不満な箇所や未熟な箇所が目につくようになる。※7

・小説を書いていて一番楽しいのは、自分は誰にでもなれるんだということ※21

・作家が物語を立ち上げる時、自分の魂の不健全さ、ゆがんだところ、暗いところ、そういうのに向き合わなくてはならないと語っている。※26

・小説は理屈でなくて感覚で読めばいい、これは何を表すかは批評家に任せればよいと考えている。※18

・小学生の時、歴史の教科書でノモンハン戦争の写真を目にしたことがあり、なぜかそれから頭の中でノモンハン戦争のことが残ってしまっている。

1994年『ねじまき鳥クロニクル』二部でノモンハンと満州のことを書いたら雑誌『マルコポーロ』から実際に言ってみませんかという話がきた。

かねがね行きたいと思っていたので、すぐにOKした。※28

・エッセイについては、毎週の連載でよく書くことがありますね?と聞かれるが

だいたい連載前に50くらいトピックを用意している。なぜかベッドに入る前にネタが思い浮かぶ

眠れない夜は僕にとってサラダ好きのライオンくらい珍しい。※5

・店を経営している時にカクテルを作った。人に教えもしたが、うまい人はうまいが、そうでもない人はそうでもなく、生まれつきうまい人はうまい。

そのことを『国境の南、太陽の西』で「美味なカクテルを作るには、作りて側の生来具わった何かしらが必要だ」と書いたら、

文芸批評家からは批判された。※7

・レキシントンの幽霊はサーフィンをしている時代に波を待っている暇な時に思いついた。※4

・甥に会った際に、国語の教科書に『ランゲルハウス島の午後』が載っており、登場人物がどんな気持ちか問う設問があったと聞いたが

作者としてもそんなのわからなかった。※18

・村上朝日堂は「house of rising sun」のことで隆盛をつづける村上春樹を象徴したものというのは全くの嘘で、

音感としてにこにこと明るくてポジティブだから、特に深い意味はない。いずれにせよ、

朝日新聞とは全く関係がない。※18

・『ファミリー・アフェア』は珍しく女性月刊誌に発表されたホームドラマ仕立ての作品である。※20

・主人公は作者がモデルではなく、人生のどこかで違う方向に進んでいたら、そうなっていたかもしれない存在であり、

現実の作者は違うけど、枝分かれしたその先の僕という感じと語っている。※26

・シークアンドファインドの作風はチャンドラーから発想を得ている。※13

・本が長いので、女性読者から重いといわれ、海辺のカフカで紙を薄くした。

そうすると、電車の扇風機でめくれると苦情が来た。※26

・戦争に行っていた父親から子どものころに何度かノモンハンの話を聞かされた。

『ねじまき鳥クロニクル』でノモンハンについて書いたようなことは、

リサーチとみたいなことはしたが、あくまで想像で書いたことだった。

この小説を書いている時、プリンストン大学にいて、大学には大きな図書館があった。

そこに書かれていることについて、それまで知らなかったことで、ノモンハン事件について他の日本人は多くを知らない。

他の小説では、日本ではなく西洋が舞台でもわからないが、

この小説は明確に日本がターゲットになっている。※26

性格、好き嫌いについて

・作品の主人公と違い、村上春樹本人は割りと雑然と生きており、時々オレということもある。※9

・小説家になってよかったのは、通勤と会議がないこと、また、素直に知りませんといえること※5

・作家ではあるが、人生において本当に語るに足る経験をしたことはないと認識している。

人は圧倒的な経験をした後に、それを具体的に文章で再現できないことに激しいフラストレーションを感じるものだ。

逆にこれといった大した経験はしていないが、ちょっとしたことに面白みや悲しみを見出す人たちがいる。村上春樹はこちら側の方が近いようだ。

・一番大事にしたい価値観は自由 ※18

・超常現象は小説では起こるが、自身は全く信じない。※18

・小説を書き始めたころ、登場人物に名前をつけるのが特に苦手だった。

カフカがKとつけたように、意味をはぎとった名前にしたかった。

カタカナで名前をつけた。漢字は何かの意味をつけてしまう。

ジョニーウォーカーやカーネルサンダースは一つのアイコン

『ノルウェイの森』のワタナベノボルは親交のある安西水丸さんの本名である。※26

・一人称だと二人だと名前なくても会話できるとし、一人称を愛用している。

三人称だと、名前がないと会話ができなくなってしまう。

・ずっと一人称小説だったが、『神の子どもたちはみな踊る』を新潮クラブで書いている時に

三人称を使おうと思い、えいやでやった。 ※26

・海外で小説が受け入れられていったのは冷戦終結後、それまでの基盤が崩れて、カオスみたいになっていったことが

基盤として作用したのではないか、きちんとして体制の元ではすんなり入ってこないのではないかと分析している。※26

別の切り口で作品に登場する商品の名前がグローバリゼーションで

一般化したためとする分析もある。

・目指す小説として『カラマーゾフの兄弟』を挙げている。とにかく長くて、

とにかく重い総合小説として、普通の人から特異な人まで登場し、

いろんなパースペクティブが有機的に重なり合うことを評価している。

また、一人称では当然書けないと考えている。※26

・結末は最初から決めてしまうと書くのが嫌になってしまうので、書きながら考える。

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は最後の結論がどうしても決まらず何パターンか書いたが、

これは例外でだいたい結論は書いているうちに自然と出てくる。※4

・批判にどう向き合うかについては、「批判に強くなるにはただ一つ、批判を目にしないこと。

自分は評論家になりたいのか、小説家になりたいのか考える」と語っている。※4

・テキストはオープンなので、好きに解釈してくださいというスタンスをとっている。※4

・モデル問題に関しては明らかな間違いが多く、ノルウェイの森は自伝的な話ではなく、

特定のモデルは存在しない。

奥さんが「まったくもう、どうして私が緑のモデルなのよ!」とぷんぷん怒っていた。※4

『ノルウェイの森』のルームメイトだけは例外的にモデルはおり、実際のルームメイトですごく真面目な人だった。※9

・心というものは整合的なもの、系統的なもの、説明できる成分だけでできあがっているものではなく

往々にして統制のとれないものごとをかき集め、それらを注ぎ込んでフィクション物語を作り上げるとしている。※19

・「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」としている。※19

・1984年か1985年ごろ、友人夫婦と四人で車をかりてハワイを旅行した際にマウイ島の小さな町で安売り古物ショップがあり

一枚の黄色いTシャツを見つけた。胸に「TONY TAKITANI」とあり、値段は1ドル、デザインも悪くない。

誰が何の目的でつくったのかわからなかったが、購入した。

その当時はインターネットはなかったが、その後編集者がインターネットで調べたところ、トニー滝谷はハワイで選挙に立候補しており

選挙運動のTシャツだったとわかった。後に「トニー滝谷」という作品を発表している。※8

・破天荒な生活を送ったフィッツジェラルドとは正反対の生活を送っているが、

利殖や財テクが苦手な点だけは共通している。そういうことを考えただけで頭が痛くなる。※25

・不動産のプロから3000万円の物件を投資用にすすめられたが、自分が住む気になれないので買わなかった。

その後、1年半で5000万円になっていた。でも今過去に戻ってもやっぱり買わなかったと思う。※25

・猫は好きでずいぶんたくさんの猫を飼った。その中でも20年以上生きた猫は一匹で

日本を出ていきノルウェイの森を書く時に、当時講談社の出版部長だった徳島さんのお宅に預けていった。

書きおろしの長編をひとつ渡しますから、と渡したものが『ノルウェイの森』だった。

徳島さんはその後常務になっている。※1

・なぜかビールの宣伝の依頼がくるが世間の人がそれを見て、ビールを飲みたいと思うとは思えなかったのでどれも受けなかった。

・一度だけ家電メーカーのCMに出たことがあり、、国立競技場のトラックでマラソンのシーンをとるけど、よかったら出ない?と言われ

外国人ランナーにまじって走っている。※1

・あまり行く機会はないが、回転寿司というのは嫌いではない。

誰とも口を利かずに食事でき、メニューと料理が出てくるのをいちいち待たなくてよいから。※1

・一時期毎日のようにオムレツを作っており、オムレツの師匠は帝国ホテルでシェフしていた村上信夫さんとしている。※5

・基本的に人からもらった衣服は身に着けないが、安西水丸さんはものすごくセンスがあり別としている。※5

・今でもジャズクラブに行くのは好き。一番好きなのは、ニューヨークのヴィレッジヴァンガード※5

・占いは信じないが、人を占うのは好き。昔、カード占いの専門書を買って読み込んだ。

すると、周りの友達からよく当たると評判になった。身辺雑事に限り、今ふりかえると、占いというより人間観察だった。

どのような人間か言葉やしぐさから読み取り、人間のありようを観察するとうま。くいった

人間観察が小説を書くということにつながっている。※5

・労働者のビールであるブルーリボンという銘柄が好み、アメリカで好んで飲んでいた。※5

・外国の街に出ると、中古レコード店に必ず立ち寄り20枚30枚と買ってしまい、奥さんにぶうぶう文句を言われる。※5

・奥さんは高いところ好きだが、高いところは苦手 ※5

・LINEもTwitterも使ったことはない。使ってと言われたこともない。※5

・東京以外で好きな海外の街として、ボストン(ジャズレコード収集にうってつけ)、ストックホルム(素晴らしいレコード店がある)、

シドニー(食べ物とワインがとてもおいしく、水族館と動物園がいい)を挙げている、※26

・ゲームは一時期一生懸命やっていたが、時間をとられて仕事ができず目が悪くなる気がするのでやめた。小説を書く方がゲームをするより楽しい。※18

・紀伊国屋や八重洲ブックセンターに行くが、まったく気づかれない。※9

・野球は土橋、ビールはサッポロ、旅行先は熱海とハワイ、鮨はかんぴょうまき ※9

・高所恐怖症、飛行機はOK、カラオケ恐怖症、竹下通り恐怖症、文壇パーティー恐怖症 ※9

・六甲山が近くにあったので、子どものころは毎週のように山登りにいっていた。大磯にいるときは、よく一人で山登りマラソンをしていた。 ※9

・猫はあくまで仲の良い友人である意味で対等なパートナーであり、芸をしこむというのはちょっと違う。※14

・子どものころは気味が悪くて苦手だったがうなぎが好き。※14

・糸こんにゃくと焼き豆腐とネギのすき焼きが好き。※14

・昔から甘いものが好きではないが、ドーナツは例外でときどき理不尽に食べたくなる時がある。※14

・長年オープンカーにのっており、屋根がなく、見上げれば、そこに空があるのが好き。

信号待ちの時ギアをニュートラルにしてぼんやり空を見ている。※7

・面白い映画を見ると取り乱す癖がある。

『羊たちの沈黙』を見た時は外国で道路の左側を走っていた。

『オリヴィエ、オリヴィエ』を見た時は、夜中なのにライトをつけず走っていた。※6

・小説家という職業に勝ち負けはないとし、発行部数や賞や批評の良し悪しは達成の一つの目安にはなるが、

本質的な問題とはいえない。書いたものが自分の設定した基準に到達できているかが何よりも大事でフルマラソンと同じ、

モチベーションは自分の中に静かに存在し、外部にかたちや基準を求めるべきではないとしている。※23

・中華料理を食べられない。※12

・つれの話を聞くのがつらい。男の人生で「死と税金と潮の満ち干と妻の繰り言」は避けることはできないとしている。※4

・作家になりたてのころ中上健次、村上龍、五木寛之と対談した。

対談する上では失礼ないように、相手の著作を全て読んでいたが、時間がかかって仕方ないので

対談はやめてしまった。河合隼雄さんと小澤征爾さんにはインタビューしている。※4

主義主張について

・学校ではたしかにいろいろなことを教わったが、はっきりいって小説を書くにはほとんど役に立たなかった。

人生で必要なことはみんな店での商売で学んだ。

例えば、店をやっていると毎日たくさんの人がくる。でも、みんなが店を気に入ってくれるわけではない。

不思議なもので10人中9人が気に入らなくても1人や2人が本当に気に入ってくれれば

店はけっこう成り立ってくれる。10人中9人がまぁ悪くないなと思うよりもそっちの方がよいのだ。※6

・自分の核は大学では教えてくれない、とにかく町に出よう、いろいろな人と知り合おう、

恋をしようという信念を持っている。※18

・30歳を超えたやつは信じるなというテーゼを持っている。※7

・今まで読んだ中でいちばんすごい本として『カラマーゾフの兄弟』を挙げている。

「深い深い井戸からまぶしい光を挙げているような小説」と語っている。※18

・動物園が好きで外国旅行をする時にそこの動物園にいく。※14

・柳の木は好きで、春夏は下に椅子を持ってきて、よく本を読んだ。※14

・自身のエッセイはビール会社が作るウーロン茶に例えている。

最高のウーロン茶を作るため全力を尽くすが、本職ではないことによる気持ちの余裕が見受けられる。※24

・ライターズ・ブロックと呼ばれる小説が書けなくなるスランプは一度もない。

小説を書きたくない時に書かないからだ。※21

・ダッフルコートが好きで13年くらい同じものを着ている。※10

・就活で原稿用紙4枚以内で自分を説明しろと言われた、村上さんならどうするか?と質問を受け、

「到底無理だが、自分については無理でも牡蠣フライについてなら説明できる

あなたと牡蠣フライの相関関係や距離感が表現される。そうしてみたらどうか?

もちろん、牡蠣フライではなく、メンチカツでもトヨタ・カローラでもよい。」回答している。※19

・カフカ賞の受賞時に、「小説家にとって、もっとも重要な意味を持つ賞はあくまで良き読者の存在であり、それ以外のものは便宜的な形式に過ぎない、

読者さえついていれば賞というものは不要で、僕がこの賞を喜んで受けるのは、それがフランツ・カフカという

僕の敬愛する作家の名を関した賞であるからだ。」と語っている。※19

・夢は双子のガールフレンドを持つこと。べつに美人じゃなくていいが、二人が等価に僕のガールフレンドであることが条件

・パーティーというのが好きになれずまず出席しない。※25

・好きな作家を三人あげろと言われたら迷わず、フィッツジェラルド、チャンドラー、カポーティを挙げる。

長い外国旅行に行くときは必ずその3人の本を持つ。あと二人プラスしろと言われたら、フォークナーとディケンズにする。

・女性は男性と違い怒りたいことがあるから怒るのではなく、怒りたいときがあるから怒るのだ。

男が怒る場合、そこにはおおむね「こうこうこうだから怒る」という筋道がある。

相手が起こっているとき位は防御を固め、おとなしくサンドバッグ状態になるしかない。と語っている。※5

・人から相談をされた時は、必ず勧めたのと違う方になってしまうため、腕組みをしてうなるだけにして、意見は言わないようにしている。※5

・たくさんの猫を飼ってきたが、名前をつけるのに苦労したことはない。

その時飲んでいるビールがキリンなら「きりん」とつけてしまう。※5

・ハルキストをどう思うかについては、「村上主義者にしましょう。その方がかっこいいから」と回答している。※4

・お金のことはあまり考えなず、自分の年収も知らない。求めるのは自由と時間 ※4

・手紙を書くことのコツは日ごろから話題をためていくこととしている。※4

・人生の持ち時間には限りがあるため、漫画やアニメは見ない。文楽は時々見に行く。歌舞伎はいかない。

野球はみるが、バスケとラグビーはみない。※4

・子どもはいませんが、「無条件に愛することができるもの」は与えあれるものではなく、自分で見出していくものですと語っている。※4

・作品中、さまざまな小説や音楽が登場するが、読者にこの本を読みなさいとかこの音楽を聴きなさいとか勧めるような意図はない。

ちなみに、周りに村上主義者はいない。奥さんでさえ、

「あなたの書く小説は私のためのものとはいえない」と公言している。※4

・レストランではどこに行ってもメニューの中くらいのレンジをたのむと、店の実力がわかるとしている。※18

・人生の目的は特にないとしている。人間は生まれた後どたばたと生きて死んで失われていくだけのものというのが基本的な人生観である。

どたばたの中である種の一貫性を見出したり、無意味さの苦しみをある程度緩和させることは可能で、小説を書くことがそれにあたる。※18

・下着とハンカチは必ず自分で買う。ハンカチにアイロンをかけると、

「さぁ、これからもそれなりにしっかりと生きていかなきゃな」と思う。※18

・30歳になって人生の進路を決めればよいと30歳成人説を提唱している。※9

・自分のことを「限定されて特殊な能力を少しはもっている平凡な人」と思っている。

・他の作家も個性的な人はそこまで多くない、平凡だから何かを成し遂げられないことはないのではないか。※9

・生まれ変わったら地下鉄銀座線の車両になりたい。駅につく手前で暗くなり、乗客をからかいたい。※9

外部との関わり、その他

・交友範囲は広くない。奥さんとガールフレンド数人、なじみの店、駅男チームもある。※9

・写真家や音楽家とかは交流するが、若い時に同業者と合って、あまり愉快な思いをしなかったため、作家同士のつきあいはしない。

もちろん、感じの良い人も何人かいたが、小説家は面倒くさいというイメージが固まってしまった。※5

・小説を書き始めた時、周りの人たちはそわそわと距離を取り出した。

自分をモデルに小説を書かれるのではないかと思ったからと後に知った。

そうではないとわかると少しずつ戻ってきた。※6

・国内では僕は自分の本にまずサインせず、サイン会も開かない。

業者の人がやってきたり、商売として著名本を集める人たちがいるため。※7

・文学集に『1973年のピンボール』をのせさせててほしいという依頼を受け、それほど立派な作品ではないと断ったことがある。

その後、企画担当していた方は全集刊行途中で心労のため入水自殺されたと聞いた。※20

・2006年度のフランツ・カフカ賞で生涯初の記者会見を行った。※20

個人がシステムに自由意志をゆだねてしまうという社会において、

個人にはどれほどの責任があるのかという趣旨の発言を行った。※12

・人前に出ることがないので、何年かに一度読者の皆さんとメールでやり取りしている

村上さんのところでは、3万7465通のメールを3カ月以上かかってすべて読み、

3716通選び返事を書き、その中から473通選んで本に収録している。総閲覧1億PV ※4

・ノーベル賞について騒がれることについては、「ブックメーカーの予想がわりと迷惑、競馬じゃあるまいし」と語っている。※4

・人生におけるもっとも深い傷というのは、自分が誰かに傷つけられたことより自分が誰かを傷つけたこととしている。※9

・ドイツで人気のあるテレビの公開文藝批評番組で『国境の南、太陽の西』が取り上げられ、

レフラー女史という有名は文芸批評家が「こんなものはこの番組から追放してしまうものだ。これは文学ではない。文学的ファースト・フードに過ぎない」と述べた。

それに対して、80歳になる司会者が立ち上がって熱く弁護してくれた。

レフラー女史は頭にきて、こんな番組金輪際出演しないと12年間務めたレギュラー・コメンテーターの座を降りた。

「それについて、村上さんはどう思うか?」とある日突然ドイツの新聞社から手紙がきた。※14

・若いころはインタビューでよく適当なことを言った。最近読んだ作家を聞かれ、実在しない作家の名前を答えていた。※14

・外国にはジェリー・バウアーとマリオン・エトリンガーら作家の顔写真を専門に撮影するプロがいて、
この二人には僕も写真をとってもらったことがあったけど、本当のスペシャリストという感じだった。※14

・人生で本当に悲しい思いをしたことが何度かあり、それを通過することで、体のあちこちで変化してしまった。

その時は、抱え込んだ悲しみや辛さを音楽に付着させ、自分自身がその重みでばらばらになってしまうのを防ごうとした。

小説にも同じような機能が備わっており、心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものだけど、
同時にもっと深いところで誰かとに会いあえるものであり、自身の作品がこの世界のどこかで、
それと同じような役目を果たしてくれているといいんだけどと心から願っている。※7

・家の本棚は家で真っ二つに別れていて、ベルリンの壁のように行き来がないが、

奥さんが河合隼雄の本を読んでいて、この人とは会った方がよいと勧めた。※21

・ラジオ勧告 2000年のアンケートで「あなたがあってみたい日本人」のアンケートを大学生にとったところ二位だった。※19

・1997年5月に阪神淡路大震災があった後、日本に帰国。

一人で西宮から神戸まで歩いたが、
故郷について書くのは難しく、傷を負った故郷について書くのはもっと難しいとしている。※28

・そこまで大きくないローンを銀行に依頼した時、断られた。

理由を聞いたら、「この間、某テレビ番組(笑っていいとも!)を見ていたら、

某作家が出ていましてその人が村上春樹はもうだめだ。あいつはもう何も書けない」と言ってたからと聞いた。

すべての預金をその銀行から即座に引き上げた。いっさい関わりを持たないようにしている。※1

・行きつけのすし屋の主人から「最初に見えた時、僕が勘定を払えないのではないか」と心配されていた、

短パンとビーチサンダル、ヤクルトのキャップをかぶり、ヒゲをはやしてなじみのない青山のすし屋に入れば、そういわれてもしょうがない。

他の店でガラガラなのに、ジロジロとみられ「予約でいっぱいでして」と断られたこともある。※5

・奥さんはリップクリームはぬるが、口紅はぬらず、化粧はしない。年をとったら年とったでいいじゃんと言っている。※18

・エッセイで書いた料理屋のウサギ亭は問い合わせが多いが、店主との魂の約束もあり、教えられない。※9

・イタリアに住んでいる時に運転免許をとった。初心者ドライバー時代をローマで過ごした。

ローマは世界のどの大都市より、ドライバーにスリルと混乱と興奮と頭痛と屈折した大きな喜びを与えてくれる。

ローマのドライバーの特徴の櫃は、文句があるとすぐに窓を開け怒鳴る。同時に手を振り回す。※14

・日本にいた時は新聞などとらなかったが、プリンストンのローカルペーパーであるトレントン・タイムズと
ニューヨークタイムズをとっている。

トレントン・タイムズはインテリ向けとはとてもいえないが、普通のアメリカの暮らしがわかる。

週のうち4日は交通事故か家事が一面で、村上春樹が引っ越してきたことが一面になった。

ニューヨークタイムズは毎日読むのはしんどいので、土日だけとっている。

とっていないとプリンストン大学関係者からは変な顔をされる。

・自身は、革命も体験していない、比較的穏やかな郊外住宅、普通の務め人、とくに不満もなく幸福でもなく

これといった特徴のない平凡な少年時代で成績も可もなく不可もなかったと語っている。※21

 参考文献

※1:『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』
※2:『ヤクルト・スワローズ詩集』
※3:『猫を棄てる―― 村上春樹 父親について語るときに僕の語ること 文藝春秋2019年6月号』
※4:『村上さんのところ』
※5:『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』
※6:『やがて哀しき外国語』
※7:『おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2』
※8:『村上春樹語辞典』
※9:『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける282の大疑問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』
※10:『村上朝日堂の逆襲』
※11:『村上春樹スタディーズ2000~2004』
※12:『村上春樹スタディーズ2005~2007』
※13:『村上春樹イエローページ (Part2) 』
※14:『村上ラヂオ』
※15:『村上春樹は、むずかしい』
※16:『村上春樹の歌』
※17:『村上春樹で世界を読む』
※18:『「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』
※19:『村上春樹 雑文集』
※20:『村上春樹 人と文学』
※21:『職業としての小説家』
※22:『リトル・ピープルの時代』
※23:『走ることについて語るときに僕の語ること』
※24:『1冊でわかる村上春樹』
※25:『村上朝日堂 はいほー!』
※26:『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』
※27:『MURAKAMI―龍と春樹の時代』
※28:『辺境・近境』

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